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一眼でも生きている石

やるべきこと:体重65kg、ゴミ出し、掃除、睡眠時間の確保。できるまで他の一切は不要

このブログの正体

 ずっと以前から、隣のマンションから聞こえてくる小さな子供の、健全な家庭のものとは思えないすさまじい泣き声と、母親の怒鳴り声がひどかった。何か月前からそれを聞いていたのかもはや思い出せないが、今日になってやっと、地域の児童虐待相談所へ電話で通報。電話に出た担当者は極めて真面目に話を聞いてくれた。「しかるべき対応をします」という力強い声。きっとそうしてくれるのだと信じたい。

 それにしても自分は遅きに失した感がある。これが死亡事故なりになって、全国ニュースにでもなった暁には、放置してしまったことに相当精神を苛まれることになる。そのリスクを軽視しすぎだったのではないか。(自分本位)

 出社したら上司にどやされる。要するに「休日に仕事をしなかったこと」をどやされているのだが、聞き流す。「こいつはどれだけ言っても休日に仕事をしない」と周囲に思わせておくことは、うつ病他の予防において極めて重要。まあとはいえまともな環境なんで、休日出勤手当はちゃんと出るし、パワハラな言辞が飛び出るわけでもないのだが。休日を死守する態度を許容してくれるホワイト企業バンザーイ。

 今や相当な著名人となった弟が、「兄さんにそろそろ会いたいですね」と発言なさる。あ、このブログは某有名作家の兄のものです。今後もよろしく。

【ネタバレ】『この世界の片隅に』を観た

 Twitter菅野完さんが絶賛していたのを直接のきっかけに、封切初日であった「この世界の片隅に」を池袋Humaxシネマズにて鑑賞。のんこと能年玲奈が主演であること以外に、何の予備知識もない。(自分の大好きな)戦時日本そして広島の被曝がテーマであることも知らなかった。結果、この映画に心を奪われてしまった。

 この映画の隅々まで、知りたい。登場人物の言葉のひとつひとつを、かみしめて、理解したい。そんな気持ちにさせられた映画に出会うのはいつぶりであろう。あるいは、初めてのことであるのかもしれない。

 鑑賞翌日の今日、書店にて原作マンガ、公式ガイドブックを買いそろえる。まだまだ、買いたいものがたくさんある。絵コンテ集も欲しいし、原作者こうの史代の他の作品も一通り読みたい。片瀬監督の作品も一通り観たい。クラウドファンディングによって集められたというこの映画の財務的背景ももちろん知らずにはいられない。

 以下大いにネタバレす。

 日常の描写が美しい映画だ。美しすぎて、「醜く」あることを排除してしまっているように感じられるという点で、非常にスリリングな映画でもある。

 「お兄ちゃん」の遺骨が、ただの「石ころ」であったことのおぞましさが、「これあの子の脳みそじゃないの?」というギャグによって回収される。時限爆弾による小さな子供の死という残酷な現実をまざまざと見せつけながら、一方で義父が道に倒れてしまい「空襲で弾に当たって死んじゃった」と思わせておいて「実は寝てただけ」というべたな笑いにつなげる。夫と死別した出戻りの義姉が、主人公夫婦について「もー夫婦仲が良くて結構なことね!」のようなことを言って泣くさまは完全にコメディタッチで描かれており、実際に劇場では笑いが起きていた。

 あまりに美しい映像のところどころに、こういった「死生観のゆがみ」が散りばめられている。それは主人公のすずも「歪んでいるのは私だ。まるで左手で描いた世界のように」(原作・下巻P60)と自ら言及している。

 あちこちで「狂いと現実感のなさ」を演出しながら、一方で映画は日常の細やかな描写を徹底的に行う。おさななじみの水谷の兄の死は、昭和初期に実際にあった転覆事故に基づいている。架空の人物のできごと・人となりの一つ一つが、現実の歴史の丹念な考証に基づいているようだ。

 この作品の冒頭シーンは、「一見、リアリティー重視のアニメ映画のようですが、はじめから夢のようなものであり、狂っているのであり、ゆがんでいるのですよ」とでも言わんばかりである。一人でお使いにだされた幼いすずが、広島の街中の橋――確信はないが爆心地として名高い「相生橋」ではなかろうか――の上で、「ばけもの」のかごの中に放り入れられる。その放り入れられたかごの中で、すずは未来の夫たる周作と初めて出会う。(たとえ子供とはいえ人間が二人が入ってなお余裕のある巨大なかごをかついでいるばけもの) 周作はすずに向かって「あいつ(ばけもの)は人さらいだ。このままだとわしらはあいつの晩飯じゃ」のようなことを言う。二人はその危機を、なんともメルヘンチックな解によって突破する――。大人になってお見合いという形で再会した二人は、この出来事を事実として互いに覚えている。原作ではこの出来事が単なる夢でない証拠も提示されている。

 この奇妙な現実と非現実の交錯は、本作の作品世界を象徴しているのだろう。どこかおかしくなっている世界で、必死に現実にしがみつくかのように、生活の細部が描写される。

 原爆でガラスの破片が体中に突き刺さり、皮膚の溶けた女性が出てきたとき、てっきりこれが「すず」の現実の姿であり、呉市で生き残ったすずは妄想の世界の住人である――という話にでもなるのかと思ってしまった。ただ、この女性の子供をすず夫婦はひきとって育てることになるという流れは、当然「この女性はあり得たかもしれないすずの末路」であったことを示唆している。(すずは原爆投下の日、広島に帰ろうとしていたのだ)

 いろいろ書いてきたが、考えがまとまらない。もっと考えたい。どうしてこの映画が自分の心をとらえているのか、突き止めたい。しばらくは仕事他もほどほどに、これに突っ走りたい。

 話は変わるが、玉音放送直後に太極旗(現・韓国の国旗)が呉の街中に掲げられるシーンがある。(言うまでもなく、現地に住んでいた朝鮮人が、ついに植民地支配から解放されるという意味でかかげたものである) 映画ではこれについてすずは何も言わなかったが、原作では「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」という非常に重要な一言を述べている。

 戦争映画やドラマでよく言われる「被害者の視点でしか描かれず、加害者としての日本をまったくなかったことにしてしまう」という批判は、この映画にも当てはまるかもしれない。呉にも多くいてすずと生活圏をともにしていたであろう朝鮮人たちは全く描かれない。朝鮮人がいなかったことにされているのも、やはり「ゆがみ」のひとつであり――どちらかといえば、それは主人公のゆがみではなく、現代に住む私たちのゆがみである――この映画世界があくまでゆがんでいることを、あの太極旗の登場で我々は一瞬現実に返って思い出すのである。だが、それもまるで言い訳であるかのようだ。

 それにしても、上記の「この国の正体かね」は映画でもそのまま採用してほしかったとは思う。

 

 11/16 追記

 id:sadamasato さんコメントありがとうございます。すずさんが「何も言わなかった」というのはどうやら記憶違いで、後日買った絵コンテ集を見て、何も言わなかったのではなく別のセリフを言っていたのだと思い出しました。そのセリフについてメモ的なエントリを起こしますが、なぜそのように変更されたのかは興味深いところです。

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

 

 

借金、海外出張

 いたし方なくまた借金。前の会社は20日締めの月末支給。今の会社は月末締めの翌25日支給。6月いっぱいで前の会社を辞め、7月1日に入社したため、6月30日に前の会社の最後の給料が支払われた後、8月25日まで大きな収入が途絶える。およそ2か月である。その間7月31日に、前の会社の6月21日から27日くらいまでの数日分の給料が支払われたが、十分ではない。

 社会復帰してからあまり時間の経ってない自分には、1か月ちょっと分の給料で2か月近くを生活するたくわえがなく、借金することにした。実家の両親にでも、元彼女でも友人でもなく、クレジットカードの「キャッシングリボ」なる制度を利用。キャッシングしたお金をリボ払いで返済できますよという、優しさの面を被った恐ろしい制度で、どのように恐ろしいのかはたいていの人には説明する必要はなかろうと思う、とにかくそのへんのATMで気軽に現金を手にできて、それに年率18%の利子がつく。

 年率18%、今回およそ8万円をキャッシングしたので、1年間借りっぱなしならば1万4000円。なんらの商品・サービスに代えられたわけでもない金額と考えると、とてつもない高さであるが、今回、(これまでさんざん金をもらった)実家に金を無心せずに済み、友人各位との信頼関係も損なわずに済むかと思うと、大した額ではないとは思える。

 リボ払いの真の恐ろしさは、こうやってささっと計算できる利子にあるのではなく、それを「月に数千円の返済でOK」とする甘言である。元本さえなかなか返せず、利子だけが膨らんでいくという人が少なくないようだ。今月は、上述のように、まあ客観的にみてやむを得ないと言える理由があった。収入が入った時点でまとめて返さなければ、大変なことになる。

 先月末、出張で上海に行ってきた。モチベーション、特に「中国語を使いこなし、中国で仕事をし、多くの中華美女とお近づきになりたい」という思いの高まる、よい旅であった。海外に行くというのはやはり、モチベーションを高め、人生の幅と世界観を広げる貴重な体験であるので、それに仕事で会社に金を出して行けるというのはやはりありがたく、また自分がそれに値する社員であるということに関しては、自信をもってよかろう。

 ただ、上海はとてつもなく暑かった。そして、接待で食べた中華料理、自分は中華のすさまじい辛さに慣れているつもりだったが、実際のところまったくそうではなかったらしく、派手に腹を壊してしまった。東京に帰ってからも一週間、完全に液状の便しかでなかった。昨日あたりになって久しぶりにまともな形状の便が出て安心する。

 来週の月曜日からはドイツに出張する。こちらは、避暑地への出張なので東京の猛暑から逃げられありがたいが、片道20時間近くもかかる旅路は相当な負担となろう。負担しただけの体験がまたできればと思う。久しぶりのヨーロッパ。初めてのドイツ。

教訓

 昨晩の夜、布団の中で動悸が激しくなり、眠れなくなった。月に一度くらいこういうことがあり、だいた3時か4時くらいまで起きている羽目になる。

 ただ今回は特につらいと感じたのは、せっかくの3連休を有効に活用できなかったという自責の念にかられたのと、明日の朝会社でスピーチをする当番だったこと。7月に入ってきたばかりなのでほとんど知らない人の前でスピーチをするわけであり、なかなか緊張する。後は、まだ入って間もない会社で、勤務時間中に居眠りをするのはとてもまずいという心配もあった。(自分がまじめすぎて嫌になるねー)

 そんな感じだったので、1年半ほど前、公務員を休職するあたりに精神科でもらった強めの抗精神薬を飲んだのだ。エビリファイという薬。睡眠導入剤がわりだと思って気軽に。

 結果、眠れはしたが、翌朝、立ち上がって見たときにすさまじい気持ちの悪さに襲われた。横になっているとなんともないのに、立っていることができない。結局会社には行けないなと判断し、午前休をとり、スピーチも明日に回した。まだ入って間もないから有給もついてないため、数千円の損失である。この過ちを繰り返せば会社での信用にも影響が出てくる。医者でもらった薬を、もらってからずっと時間が経ってから、勝手な判断で飲んだりするのはとても良くない。大事な教訓だ。

 午後になるとだいぶよくなった。

 夕方、ポケモンGOが明日発売であるというニュースが入る。

 ポケモンGOがあれば程よい運動を継続できると考えていることは前にも書いたが、それともう一つ、ますます疎遠になりつつ元彼女との復縁の、最後のチャンスになるかもしれない。趣味の違いがいろいろ出てきてしまったが、ポケモンGOだけはなぜかいっしょに楽しめそうな予感があるのだ。

HS ingress

 土曜日、LOLのランクに行く。一戦目、劣勢の試合を逆転し、味方に褒められる。二戦目、育っていたfizzが、例によって敵に1vs3~5を挑み、逆転負け。三戦目、恐ろしくtoxicな、煽りmia ping出しまくりのYasuoが味方にいて、そいつのfeedもあってみじめな負け方をする。

 このゲームやっていていろいろ腹立つことはあるが、mia ping煽りくらい人の神経を逆なでするものはない。かつmute等による対策もできない。ヘイトスピーチなどゲーム内に限らず一般社会でも悪である行為を除けば、このゲームで最悪の行為だと思う。

 mia pingの不適切な使用をmuteできる機能が実装されるまで、しばらくこのゲームから離れたいと思った。

 先日Riotはping機能を充実し、サモナースペルのクールダウンやmanaの状況についてクリックで簡単に味方に知らせられるようになった。ユーザー間の潤滑なコミュニケーションを推進する意思があるわけだ。そうであれば、意外と近いうちにpingのミュート機能も実装してくれるんじゃないかなあ。

 「ないかなあ」などと人任せではしょうがないので、Riotサポートに要求を出した。自分の好きなサービスについてでも、行政に対しても勤務先に対しても、必要だと思うことはちゃんと必要だと表明する習慣を身につけていきたいものだ。

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 LoLを離れてハースストーンへ。ハースストーンのほうが、いろんな意味で自分に合っていると思うことはもとから多々あった。(1vs1である、アクション要素がない、1試合ごとの試合時間が短い、チャット機能がないので暴言を浴びせられる可能性皆無)このままLoLに帰ってこれなかったらどうしよう、と心配にならなくもない…。

 土日合わせて10時間以上やったと思うが、ランク20より上に上がれない。

 勝ちたいからというよりは、このゲームをもっと理解したいのでもう7,000円ほど課金するかどうか悩む。自分の中の「ゲーム業界に一身を捧げるつもりの人間が好きなゲームに課金もできずにどうする」派vs「まだ生活費に不安がある状況で何考えてるんだ」派が争っており近々国民投票の実施だろうか。LoLには確か1年で1.5万円くらい課金したと記憶している。

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 この土日、Ingressを再開した。ポケモンGOがもうすぐ出るというタイミングで何故という感じだが、ポケモンGOが待ち切れなかったので始めたのだ。歩くことが楽しくなるので、やはりいいゲームだと思う。土日で7~8時間ほどプレイした(=歩いた)。しかしポケモンGOはいろんな意味で、既存の社会構造に対する挑戦になるのだろうなあ。

やり損ねてはならない仕事

 F社のOさんと池袋で飲む。自分を図らずもこの業界に導いてくれた恩人のような人だ。自分のほうがゴタゴタしてたので会うのは実に半年ぶり。人間嫌いの自分だがこの縁は大切にしたい。

 来客対応という仕事はまだまだ苦手。今日は、明らかに来客に向いていない会議室に案内し、資料を間違え、そしてお茶を出し忘れた。自分がお茶を出し忘れたせいで、女性社員にお呼びがかかり、その人がお茶を出してくれた。その人は、フロアでただ一人の女性で、女性であるという理由で、本来は私がやるべき仕事をやらされたわけだ。きっと屈辱的な思いをしたのではないか。罪悪感で情けなくなる。他はともかく、お茶だけは絶対に出しそこねぬようにせねばならぬ。そしてこの社会、自分が社長か何かになって、少しでも変えてやるという気持を新たにした。

石を投げる

読書

 ふるまいよしこ『中国メディア戦争 ネット・中産階級・巨大企業』を読んだ。

www.nhk-book.co.jp

 とても面白い本だった。「メディア」を中心として、現代中国の様々なエピソードが語られるが、そのどれもが非常に味わい深く、普通の日本のメディアではなかなか接することのできない類のものだ。

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 『日本会議の研究』を書いた菅野完さんのかつての行為について、週刊金曜日が報じたらしい。私は同書が発売されるずっと前から、菅野さんのファンだったので、「婦女暴行」と言って差し支えないその内容にはショックを受けた。

 菅野さんが何か大変なことをして、界隈で大変に嫌われているという話は聞いていた。「不倫した女に子供を産ませた」とか、そういう話だと勝手に思っていた。(思っていたというか、誰かがそんなことをつぶやいたのを読んだ記憶がある。単なるデマだったのかもしれない。)それも十分に問題かもしれないが、婦女暴行とはやはり本質的に異なる。不倫関係だと思っていたから、「能力のある人間は、モテてしまうものだから、多少そういったいざこざは避けられない宿命だ」と、こっそり彼を擁護していた。こういうふうにも、どういうふうにも、真相は擁護できないような事柄であった。

 それにしても。これと同等の、これに近いような婦女暴行、相当悪質なセクハラを、著名人によるものでなく、比較的身近な知人や知人の知人がやったとか、被害に遭ったとか言う話を、過去10年で何度も何度も何度も聞いた。こういった話は「ありふれている」。

 私自身の身を振り返っても。かつて自分が行った性的な行為について、すべて「相手との同意に基づいて」やったものだと自信をもっていえるか?相手の心情お構いなしに突っ走ったものではないと言えるか?答えはノーである。少なくとも3件、相手の心を深刻に傷つけた可能性のある事案をすぐに思いつく。

 自分の身を振り返ると、彼にストレートに石を投げる気にはなれない。

 自分のことを棚に上げていえば、この社会は性犯罪に対して、相当寛容なところがあるのではないか。どのような行為が女性の心を深く傷つけ、尊厳を奪うことになるのか、学校でまともに教えられた男性はどれだけいるだろうか?(私は学校でそういう教育をまったく受けなかった)

 今日の会社の会議、私は6人ほどを相手にプレゼンを行ったが、自分も含めてすべて男。自分のフロアには20人ちょっとの社員がいるが、女性はたった一人。女性社員のほとんどは、「管理部」という名の掃除やお茶くみを中心とした業務を担当している。どこへ行っても、こんなことばかり。

 この社会に大した疑問を抱かず、かつてどれほど女性を傷つけたかを自省もしない多くの日本の男たちのうちで、彼にまっすぐ石を投げる資格のある人物が、どれだけいるというのだろう。

 私は、今の日本社会が「あまりにあんまりだ」と思うようになった。以前から少しずつ気づいてはいたのだが、菅野さんのこの文章を読んだのが決定的だった。

togetter.com

 巷の論評で耳にする高尚な批評的・政治的概念は、あまりピンとこないことが多いのだが、ここで語られている事象は、我々にとって当たり前の日常になってしまっており、それゆえに極めて重く、根本的である。この根本的な部分に目をつけている人が少ないからこそ、日本では女性の尊厳が極めて軽く扱われる。その視点を獲得してから、日常の風景ががらりと変わった。まさに「うろこが落ちた」と表現するにふさわしい体験。

 しかし、その彼もまた、女性の尊厳を極めて軽く扱っていた当事者のひとりにすぎなかった。

 私も、そうだ。