一眼でも生きている石

やるべきこと:体重65kg、ゴミ出し、掃除、睡眠時間の確保。できるまで他の一切は不要

優先事項

 起きたら10時だった。先月末から、勤務時間が13時~22時となったので、夜型生活である。しかし昨日は1時前には寝たはずで、都合9時間布団の中にいたことになる。せっかくの午前中、もっと気分のよくなること――読書と運動――に使いたいものである。

 午前中に積極的に予定を入れるようにしたい。あしたはパーソナルトレーニング。1回あたり8,000円、4回で32,000円。高い。肉体改造を最優先とする。

太極旗とセリフの変更

 以下、ネタバレに属する事柄と思う。

 先日、

玉音放送直後に太極旗(現・韓国の国旗)が呉の街中に掲げられるシーンがある。(言うまでもなく、現地に住んでいた朝鮮人が、ついに植民地支配から解放されるという意味でかかげたものである) 映画ではこれについてすずは何も言わなかったが、原作では「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」という非常に重要な一言を述べている。*1

 と書いたのだが、これは記憶違いで、すずは「何も言わなかった」のではなく、別のセリフを言っていた。ちゃんともう一度映画を見直して確認したいが、「絵コンテ集」に書いてあるセリフを確かそのまま言っていたと思う。

 そのセリフとは 

 「海の向こうから来たお米…大豆…そんなそんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」

 である。

 これ単体で見ると、終戦という一大事に直面して錯乱している様子がうかがえるセリフということになるが、しかし元のセリフと比べると、不可解な変更だと感じる。

「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」

 から

「海の向こうから来たお米…大豆…そんなそんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」

 への変更。

 はっきりとした論理性のある原作のセリフに比べて、映画のセリフは支離滅裂になっているという印象を持たざるを得ない。いったいどうしたことか…。(絵コンテにはこう書かれていたというだけの話なので、実際どう言っていたか、ちゃんともう一度劇場に足を運んで確かめるつもりだ。)

 この件に限らず、この作品における、「見たくないものの隠蔽」という側面から目を背けるわけにはいかないのではないかと思う。太極旗が視認できるくらいだから、すずの生活圏に朝鮮人は普通にいたわけだが、それは一切出てこない。

 みんなの見たいものだけ見せて、それで「美しい映画!」と褒め合っているようでは、ひどい欺瞞である。

 もちろん自分は、この映画がひどい欺瞞だとは全く思っていない。唐突に登場する太極旗を見て、自分も含めて「しまった、彼らのことをすっかり忘れていた」と反省させられた観客は少なくないはずだ。

 この映画の圧倒的な考証、リアリティーは、必ず人々をして「当時のことをもっと知りたい」という方向に向かわしむはずである。

 そのような効果がありながら、やはり作り手の側にも「隠したい」という気持を抑えられないところがあったのではないか…と想像せざるをえない箇所はいくつもある。

 もちろん、あらゆることを隠し偽りながら生きている平凡な自分が偉そうに言えることではまったくないけれど。

 

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

 

 

『この世界の片隅に』感想 もっとも崇高なる「犠牲の少女」

 多くの人の「この世界の片隅に」感想を読んでいる。この映画についていろいろな人の語っているのを見るだけで楽しい。一方で自分と同じこと、近いことを言っている人が全くいないので、よほど自分がずれているのかしらんと不安になる。

 おととい書いたようにこの映画の「すごみ」は、身近ないろいろな人の「死」が「笑い」、それも「穏やかな笑い」に回収されてしまっていくところだと思う――。多くの人は単純に「苦しい状況の中で、笑いの絶えない素敵な日常を描いた映画」という感想を述べているのだが、私はむしろ「絶望的な状況の中でゆがんでしまった『笑い』のすごみ」を感じるのであるが……。

 こうの史代先生の出世作『夕凪の街 桜の国』を読む。両作品とも、残酷で美しい愛の物語。少女性を強く感じさせる、けなげな女性が、似つかわしくないむごい仕打ちにあう。(最初「処女性」と書いていたのを「少女性」に変えた)

 少女の犠牲というのは、人間社会にとって重いものであり、極めてシンボリックに作用する。この映画に、自分も含めて多くの人が心を奪われるのは、それが「少女の犠牲」の物語だからだろう。しかし、犠牲になる少女を造形するのは、言うほど簡単なことではあるまい。

 あまり安易に他の作品と比較したくないが、『この世界の片隅に』のすずさんは、「魔法少女まどか☆マギカ」の鹿目まどかよりも、ナウシカよりも、ずっと成功した「犠牲の少女」像であるように思われる。なぜだろう。一つにはもちろん、徹底した考証に基づくリアルな歴史絵巻の中の少女だから。あと、「のん」が偉大だから。

 そして「少女」というのは、「トトロ」のさつきとメイしかり、まどかしかり、常に現実をゆがませる役割を担うわけであるが、浦野すずほどこの役割を巧妙に担っている「少女」はいないのではなかろうか。物語の冒頭で「ばけもの」を呼び寄せたのは彼女の役割を象徴的に担っているのだが、この「ばけもの」以降、すずが物語世界を明確に「非現実」にするシーンはない。(白木リンとの出会いなどもあるが…あれは普通に現実だったのだろう) その代わり、彼女は「日常生活のかすかなゆがみ」を担い続ける。それが冒頭で描いたような、さまざまなゆがみ、残酷な戦争との彼女の関りが招いたゆがみである。すずが圧倒的な存在であるのは、この現実と「ゆがんだ」世界のバランスの非凡な均衡のためではなかろうか…。

このブログの正体

 ずっと以前から、隣のマンションから聞こえてくる小さな子供の、健全な家庭のものとは思えないすさまじい泣き声と、母親の怒鳴り声がひどかった。何か月前からそれを聞いていたのかもはや思い出せないが、今日になってやっと、地域の児童虐待相談所へ電話で通報。電話に出た担当者は極めて真面目に話を聞いてくれた。「しかるべき対応をします」という力強い声。きっとそうしてくれるのだと信じたい。

 それにしても自分は遅きに失した感がある。これが死亡事故なりになって、全国ニュースにでもなった暁には、放置してしまったことに相当精神を苛まれることになる。そのリスクを軽視しすぎだったのではないか。(自分本位)

 出社したら上司にどやされる。要するに「休日に仕事をしなかったこと」をどやされているのだが、聞き流す。「こいつはどれだけ言っても休日に仕事をしない」と周囲に思わせておくことは、うつ病他の予防において極めて重要。まあとはいえまともな環境なんで、休日出勤手当はちゃんと出るし、パワハラな言辞が飛び出るわけでもないのだが。休日を死守する態度を許容してくれるホワイト企業バンザーイ。

 今や相当な著名人となった弟が、「兄さんにそろそろ会いたいですね」と発言なさる。あ、このブログは某有名作家の兄のものです。今後もよろしく。

【ネタバレ】『この世界の片隅に』を観た

 Twitter菅野完さんが絶賛していたのを直接のきっかけに、封切初日であった「この世界の片隅に」を池袋Humaxシネマズにて鑑賞。のんこと能年玲奈が主演であること以外に、何の予備知識もない。(自分の大好きな)戦時日本そして広島の被曝がテーマであることも知らなかった。結果、この映画に心を奪われてしまった。

 この映画の隅々まで、知りたい。登場人物の言葉のひとつひとつを、かみしめて、理解したい。そんな気持ちにさせられた映画に出会うのはいつぶりであろう。あるいは、初めてのことであるのかもしれない。

 鑑賞翌日の今日、書店にて原作マンガ、公式ガイドブックを買いそろえる。まだまだ、買いたいものがたくさんある。絵コンテ集も欲しいし、原作者こうの史代の他の作品も一通り読みたい。片瀬監督の作品も一通り観たい。クラウドファンディングによって集められたというこの映画の財務的背景ももちろん知らずにはいられない。

 以下大いにネタバレす。

 日常の描写が美しい映画だ。美しすぎて、「醜く」あることを排除してしまっているように感じられるという点で、非常にスリリングな映画でもある。

 「お兄ちゃん」の遺骨が、ただの「石ころ」であったことのおぞましさが、「これあの子の脳みそじゃないの?」というギャグによって回収される。時限爆弾による小さな子供の死という残酷な現実をまざまざと見せつけながら、一方で義父が道に倒れてしまい「空襲で弾に当たって死んじゃった」と思わせておいて「実は寝てただけ」というべたな笑いにつなげる。夫と死別した出戻りの義姉が、主人公夫婦について「もー夫婦仲が良くて結構なことね!」のようなことを言って泣くさまは完全にコメディタッチで描かれており、実際に劇場では笑いが起きていた。

 あまりに美しい映像のところどころに、こういった「死生観のゆがみ」が散りばめられている。それは主人公のすずも「歪んでいるのは私だ。まるで左手で描いた世界のように」(原作・下巻P60)と自ら言及している。

 あちこちで「狂いと現実感のなさ」を演出しながら、一方で映画は日常の細やかな描写を徹底的に行う。おさななじみの水谷の兄の死は、昭和初期に実際にあった転覆事故に基づいている。架空の人物のできごと・人となりの一つ一つが、現実の歴史の丹念な考証に基づいているようだ。

 この作品の冒頭シーンは、「一見、リアリティー重視のアニメ映画のようですが、はじめから夢のようなものであり、狂っているのであり、ゆがんでいるのですよ」とでも言わんばかりである。一人でお使いにだされた幼いすずが、広島の街中の橋――確信はないが爆心地として名高い「相生橋」ではなかろうか――の上で、「ばけもの」のかごの中に放り入れられる。その放り入れられたかごの中で、すずは未来の夫たる周作と初めて出会う。(たとえ子供とはいえ人間が二人が入ってなお余裕のある巨大なかごをかついでいるばけもの) 周作はすずに向かって「あいつ(ばけもの)は人さらいだ。このままだとわしらはあいつの晩飯じゃ」のようなことを言う。二人はその危機を、なんともメルヘンチックな解によって突破する――。大人になってお見合いという形で再会した二人は、この出来事を事実として互いに覚えている。原作ではこの出来事が単なる夢でない証拠も提示されている。

 この奇妙な現実と非現実の交錯は、本作の作品世界を象徴しているのだろう。どこかおかしくなっている世界で、必死に現実にしがみつくかのように、生活の細部が描写される。

 原爆でガラスの破片が体中に突き刺さり、皮膚の溶けた女性が出てきたとき、てっきりこれが「すず」の現実の姿であり、呉市で生き残ったすずは妄想の世界の住人である――という話にでもなるのかと思ってしまった。ただ、この女性の子供をすず夫婦はひきとって育てることになるという流れは、当然「この女性はあり得たかもしれないすずの末路」であったことを示唆している。(すずは原爆投下の日、広島に帰ろうとしていたのだ)

 いろいろ書いてきたが、考えがまとまらない。もっと考えたい。どうしてこの映画が自分の心をとらえているのか、突き止めたい。しばらくは仕事他もほどほどに、これに突っ走りたい。

 話は変わるが、玉音放送直後に太極旗(現・韓国の国旗)が呉の街中に掲げられるシーンがある。(言うまでもなく、現地に住んでいた朝鮮人が、ついに植民地支配から解放されるという意味でかかげたものである) 映画ではこれについてすずは何も言わなかったが、原作では「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」という非常に重要な一言を述べている。

 戦争映画やドラマでよく言われる「被害者の視点でしか描かれず、加害者としての日本をまったくなかったことにしてしまう」という批判は、この映画にも当てはまるかもしれない。呉にも多くいてすずと生活圏をともにしていたであろう朝鮮人たちは全く描かれない。朝鮮人がいなかったことにされているのも、やはり「ゆがみ」のひとつであり――どちらかといえば、それは主人公のゆがみではなく、現代に住む私たちのゆがみである――この映画世界があくまでゆがんでいることを、あの太極旗の登場で我々は一瞬現実に返って思い出すのである。だが、それもまるで言い訳であるかのようだ。

 それにしても、上記の「この国の正体かね」は映画でもそのまま採用してほしかったとは思う。

 

 11/16 追記

 id:sadamasato さんコメントありがとうございます。すずさんが「何も言わなかった」というのはどうやら記憶違いで、後日買った絵コンテ集を見て、何も言わなかったのではなく別のセリフを言っていたのだと思い出しました。そのセリフについてメモ的なエントリを起こしますが、なぜそのように変更されたのかは興味深いところです。

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

 

 

借金、海外出張

 いたし方なくまた借金。前の会社は20日締めの月末支給。今の会社は月末締めの翌25日支給。6月いっぱいで前の会社を辞め、7月1日に入社したため、6月30日に前の会社の最後の給料が支払われた後、8月25日まで大きな収入が途絶える。およそ2か月である。その間7月31日に、前の会社の6月21日から27日くらいまでの数日分の給料が支払われたが、十分ではない。

 社会復帰してからあまり時間の経ってない自分には、1か月ちょっと分の給料で2か月近くを生活するたくわえがなく、借金することにした。実家の両親にでも、元彼女でも友人でもなく、クレジットカードの「キャッシングリボ」なる制度を利用。キャッシングしたお金をリボ払いで返済できますよという、優しさの面を被った恐ろしい制度で、どのように恐ろしいのかはたいていの人には説明する必要はなかろうと思う、とにかくそのへんのATMで気軽に現金を手にできて、それに年率18%の利子がつく。

 年率18%、今回およそ8万円をキャッシングしたので、1年間借りっぱなしならば1万4000円。なんらの商品・サービスに代えられたわけでもない金額と考えると、とてつもない高さであるが、今回、(これまでさんざん金をもらった)実家に金を無心せずに済み、友人各位との信頼関係も損なわずに済むかと思うと、大した額ではないとは思える。

 リボ払いの真の恐ろしさは、こうやってささっと計算できる利子にあるのではなく、それを「月に数千円の返済でOK」とする甘言である。元本さえなかなか返せず、利子だけが膨らんでいくという人が少なくないようだ。今月は、上述のように、まあ客観的にみてやむを得ないと言える理由があった。収入が入った時点でまとめて返さなければ、大変なことになる。

 先月末、出張で上海に行ってきた。モチベーション、特に「中国語を使いこなし、中国で仕事をし、多くの中華美女とお近づきになりたい」という思いの高まる、よい旅であった。海外に行くというのはやはり、モチベーションを高め、人生の幅と世界観を広げる貴重な体験であるので、それに仕事で会社に金を出して行けるというのはやはりありがたく、また自分がそれに値する社員であるということに関しては、自信をもってよかろう。

 ただ、上海はとてつもなく暑かった。そして、接待で食べた中華料理、自分は中華のすさまじい辛さに慣れているつもりだったが、実際のところまったくそうではなかったらしく、派手に腹を壊してしまった。東京に帰ってからも一週間、完全に液状の便しかでなかった。昨日あたりになって久しぶりにまともな形状の便が出て安心する。

 来週の月曜日からはドイツに出張する。こちらは、避暑地への出張なので東京の猛暑から逃げられありがたいが、片道20時間近くもかかる旅路は相当な負担となろう。負担しただけの体験がまたできればと思う。久しぶりのヨーロッパ。初めてのドイツ。

教訓

 昨晩の夜、布団の中で動悸が激しくなり、眠れなくなった。月に一度くらいこういうことがあり、だいた3時か4時くらいまで起きている羽目になる。

 ただ今回は特につらいと感じたのは、せっかくの3連休を有効に活用できなかったという自責の念にかられたのと、明日の朝会社でスピーチをする当番だったこと。7月に入ってきたばかりなのでほとんど知らない人の前でスピーチをするわけであり、なかなか緊張する。後は、まだ入って間もない会社で、勤務時間中に居眠りをするのはとてもまずいという心配もあった。(自分がまじめすぎて嫌になるねー)

 そんな感じだったので、1年半ほど前、公務員を休職するあたりに精神科でもらった強めの抗精神薬を飲んだのだ。エビリファイという薬。睡眠導入剤がわりだと思って気軽に。

 結果、眠れはしたが、翌朝、立ち上がって見たときにすさまじい気持ちの悪さに襲われた。横になっているとなんともないのに、立っていることができない。結局会社には行けないなと判断し、午前休をとり、スピーチも明日に回した。まだ入って間もないから有給もついてないため、数千円の損失である。この過ちを繰り返せば会社での信用にも影響が出てくる。医者でもらった薬を、もらってからずっと時間が経ってから、勝手な判断で飲んだりするのはとても良くない。大事な教訓だ。

 午後になるとだいぶよくなった。

 夕方、ポケモンGOが明日発売であるというニュースが入る。

 ポケモンGOがあれば程よい運動を継続できると考えていることは前にも書いたが、それともう一つ、ますます疎遠になりつつ元彼女との復縁の、最後のチャンスになるかもしれない。趣味の違いがいろいろ出てきてしまったが、ポケモンGOだけはなぜかいっしょに楽しめそうな予感があるのだ。