一眼でも生きている石

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『コレモ日本語アルカ?――異人のことばが生まれるとき』

 金水敏『コレモ日本語アルカ?』(岩波書店)を読んだ。先ごろ出版されたばかりの本である。著者のことはまったく知らないが、タイトルを見て、きっと自分の関心に沿う本だと思った。果たしてそうであった。

 

 フィクションの中の中国人はなぜ「責任とるよろし」「デートするある」(らんま1/2のシャンプー)のような話し方をするのかと、おそらく多くの人が一度は疑問に思ったことがあるだろう。

 

 私はラーメンを始めとする「日本でできた中華料理」が、明治時代に中国から日本にやってきた人々と日本人が出会ったことによって誕生したことをなんとなく知っていた。(近頃はラーメン=中華という認識の人は少なくなったが、「キン肉マン」の「ラーメンマン」をはじめ、ちょっと前まで中華キャラとラーメンは分かちがたく結びついていた) 現代日本における戯画化された、(一昔前までの)フィクションに登場するわかりやすい「中国人」像は、明治期に日本に滞在していた中国人によって形成された側面が大きい。

 

 そこから連想して、「ハハーン、『ある』『よろし』言葉も、きっと明治時代の在日中国人が話していたんだろうな」くらいに思っていた。もちろんそういう面もあるのだが、実相はやや異なったようである。

 

 第一に、「〜ある」式の話し方をしていたのは中国人なのかといえば、実はそうではなく、むしろ当初の使い手は西洋人であった可能性が大きいようだ。著者は「通商交渉のために日本を訪れたスイス時計業組合会長アンペールによる日本旅行記」を例示している。そこでアンベールが、召使の日本人トオとの会話に用いたのが「アリマス」(肯定)「アリマスカ」(疑問)「アリマセン」(否定)の3つのパターンしかない日本語である。「茶、アリマスカ」とアンベールが言えば、「アリマス」とトオが言って茶を運んでくる。召使と主人の会話であるから、そのような必要最小限の言葉遣いですべて事足りてしまったということだ。「ある」意外の動詞を全部切り捨てて言語を必要最小限に習得するというのが、この話し方の起源ということだろうか。

 

 この話し方を西洋人のみならず中国人もするようになったのは、「西洋人は自分が使役するための中国人を、開港当初から居留地に連れてきて住まわせることがあった。初め、こうした中国人は単純な肉体労働に従事するものが大半であったが、商才にたけ、また同じアジア人ということで日本人にもなじみやすいという点から、居留地内でさまざまな商業活動を営むものも増えてきた」(45ページ)ことで、中国人にも日本語習得の必要性が生じ、「〜ある」式の話し方が始まったということだろう。

 

 第二に、この話し方と中国人を決定的に結びつけ、のちのマンガをはじめとするフィクションに大きな影響を与えたのがあの「のらくろ」シリーズであるということだ。「『のらくろ』シリーズは当時の子供たちに多大な影響力を持っていたので、やがてその子供たちのなかから創作者が現れたとき、<アルヨことば>がその作品に継承されていくのである」 我々が知っている<アルヨことば>はほとんど全てこれであると言っても過言ではないのではないか。私自身が接した作品でいえば、『らんま1/2』くらいであるが、近年のヒット作品である『金色のガッシュ』や『ヘタリア』『銀魂』にまで、この話し方は用いられ続けているようだ。

 

 要するに、<アルヨことば>はとにかく「マンガ的」なものであるということに尽きると思う。「明治時代の中国人がこういう話し方をしていた」という私の当初の想像も決して間違いではないが、<アルヨことば>は西洋人のものとされても別におかしくなく、これが中国人と結びつけられ、ステレオタイプとして固定化していくプロセスこそが重要だったというべきだろう。

 

 著者は「あとがき」で「もはや政治的な文脈への配慮なしに軽々に<アルヨことば>を用いたり論じたりすることは慎まれるべきである。本書に記したこのことばの背後にある歴史についての知識や、またそれに伴う配慮が、新たな日本の常識となることを願ってやまない」と述べている。私もまったくそのとおりだと思った。特に近年は2ch界隈で、<アルヨことば>は明らかに中国人に対する侮蔑語として用いられている。マンガで連綿と使われ続け、愛されるキャラクターを生み出し続けててきたとはいっても、結局はそういった侮蔑の要素を多分に含む言葉だということなのだろう。

 

 一方で著者の「<アルヨことば>をしゃべる中国人キャラクターの、とぼけた味わいが好ましかった。...私の子供時代に出会った戦後の作品では、明るく朗らかで前向きな、魅力的な人格も同時に表現されていたはずである」という吐露にもまた共感する。私自身子供のころに読んだ、シャンプーをはじめとする「らんま」のキャラクターが、中国文化への興味の根底にある。そして<アルヨことば>がその入口になってないとは言えないのである。清く正しい入り口とは言えないかもしれないけれど。