一眼でも生きている石

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台湾映画二本

 土曜日、ケイズシネマという新宿の映画館でひとり映画鑑賞。


新宿 | 映画館 | ケイズシネマ

 

 今は「台湾巨匠傑作選アンコール」という特集をやっている。この日やっていた『セデック・バレの真実』と『海角七号』の2本を観る。

 

 『セデック・バレの真実』は、最近の映画『セデック・バレ』で日本でも広く知られるようになった日本統治下台湾の抗日事件「霧社事件」の関係者の子孫などを取材したドキュメンタリー。原題は『餘生(余生)』、といっても「残りの人生」の意味ではなく「生き残った者」の意味である。(中国語の辞書によると、「余生」にはこの両方の意味があるようだ。)

 私は『セデック・バレ』も観ておらず、霧社事件について何も知らなかったのであるが、この映画を観てそれがいかに重要な事件であったかを認識できた。また、台湾の複雑で豊かな民族的な背景についても伺うことができた。台湾にはそれなりに関心をもっているつもりでいたが、こういうことは全く知らなかった。中国語とはかなり異なる音韻をもつ先住民の言語、セデック語が全編を通して響く。そのセデック語に、ずいぶん多くの日本語が混じる。たぶん中国語も混じっているのだろう。もちろん中国語を話す(中国語しか話せない)現代の若いセデック族も多く登場する。この言語世界を楽しむだけでも十分な映画である。

 しかしもちろん、重要なことは、映画の人々が日本軍と戦ったこと、日本軍のあくどさを多く語っているということだ。それは告発というより、民族の歴史を淡々と語っているかのようだ。彼らは「日本軍にひどいことをされた台湾人(の子孫)」であるのかもしれないが「(中華系)台湾人とも民族的なあつれきを抱えうる先住民族」である点も暗示されている。民族、それも言語と土地とともに消えてしまいそうな民族とは何なのかというのが、この映画の最も重要なテーマである。

 日本に住んでいると台湾は小さな島で、単一的に見えてしまうが、実際には日本よりもずっと複雑な背景をもつ国だと認識すべきであろう。「台湾」とくくって語るような態度だけは避けねばならないと、少し知ればだれでも思うようになるだろう。

 すごく良い映画だが、ストーリー展開がはっきりあるわけでないドキュメンタリーで二時間半は長く、集中力が切れてしまって、人物相関などが把握しきれない。

 二本目の『海角七号』は、まあ楽しい作品であったが、完成度の低さも目立った。日本文化への親しみを表現した作品でもあって、それは良いのだが、観た後でタイトルをググってみたら案の定ネトウヨのサイトが出てきてうんざりした。彼らが『海角七号』も撮るいっぽうで『セデック・バレ』や『セデック・バレの真実』も撮る台湾の複雑さ、微妙さを認識することがあるのだろうか。