一眼でも生きている石

やるべきこと:体重65kg、ゴミ出し、掃除、睡眠時間の確保。できるまで他の一切は不要

発達障害に気づいた話

 仕事を始めて一月半、「発達障害」が自分の最大の関心ごととなった。それまでこの言葉を知らなかったわけではないが、自分がそうであると真剣に考えたことはなかったのである。だが今、仕事でつまづきを重ねて自分はこれなのではと思い当たると、今までの自分の人生における多くのことを、発達障害、とりわけADHDという軸でもって理解すべきであると感じる。

 私の祖父は私が幼い頃に亡くなったが、地元の大病院の副院長まで務めた医者であったのでそれなりの財産があり、そのうちの何百万円かが私の大学での学費および生活費ということで遺された。高校を卒業して東京の大学に進学するにあたり、父はその数百万円を「これからはこれで生きていけ」というような感じで渡した。

 私はやたら家賃の高い家に住んだり、食費はすべて外食で一日3,000円くらいかけたり、やたら高い服を買ったり、何度も引っ越しをしたり、読みきれない大量の書籍を購入したりし、その数百万円をあっという間に使い切った。さらに大学は一年留年した挙句、そのあとフリーターに。その間の生活も、自分で多少バイトはしていたが、金が足りないと言って実家に泣きつき、仕送りをしてもらった。そして父(重度の精神障害者)も祖母(相当な額の年金を受け取っている)も、嫌味の一つも言わず、私にお金を送ってくれた。

私は「起業をする」と言ってわけのわからないことをしたり、某革命家の弟子になると言って九州に行ったり、大学院に行ったりと、大したプランもなしに次々と新しいことを始めては頓挫し、何も身につかず何も成し遂げず、修士号だけはなんとかとった――それでも、人に「大学院で何を勉強したの?」と質問されると、必ず言いよどむ。何も身についていない――とき、公務員試験の勉強を始め、1年ちょっと勉強してなんとか内定をとった。28歳で公務員になれたのも、実家の援助や恋人の援助でバイトを週に1~2回しかせずに済んだというのが大きい。

 この計画性のなさと、刺激を求めて浪費し、何にでも首を突っ込んでしまうのは、ADHDのわかり易い症状であると言うべきなのではないか。

 人間関係にも問題が多かった。大学で所属していたサークルでは、サークル内で失恋した次の週には同じサークルの他の女性を好きになって、ふられては新しく恋をするということを繰り返していた。そんなサークルにも3年間いて一度は溶け込み周囲と打ち解けることができたものの、ちょっとしたストレスから周囲に対して攻撃的になり、重要な役職についていたにも関わらず、挨拶もなしに一方的に脱退した。

 会話などにおいては場に応じた適切な発言ができず、いわゆる「空気の読めない」状態であることが多かった。それでも、自分のキャラの独特さが受け容れられて人気者になるということは、上記のサークルを含めて、これまで何度かあった。だが、それも相当長い時間をいっしょに過ごした関係においてのみ起こることであって、何度か会っただけの相手と打ち解け、関係を築くという経験は乏しい。

 またとてつもない方向音痴であり、何度も行った目的地にたどり着くにも迷子になることがある。まっすぐ北方向に歩いている途中でコンビニに入って出た後、なぜか南方向に進んでいくということもよくある。ただでさえ隻眼なのでとても車の運転をする気にはなれず免許はもっていない。

 仕事を始めてみると、上司の指示を記憶することができず、「Aをするな」という指示を「Aを必ずせよ」とまったく逆に記憶していることも少なくなくて自分で唖然とする。上司が悪意をもって自分を錯乱させようとしているのではないかとさえ感じる。

 そういえば、自分が網膜剥離で右目の視力を失ったのは、12~14歳のころ顔面のアトピーがひどくて、顔をひっきりなしに叩き続けていたからなのだが、これも単に痒みのためというだけでなくADHDの多動性が少なからず関係したのではないか、と今はみている。

 さて「発達障害」という概念につい最近出会うまで、上記のような自分の特性について真剣に省みることはなく、むしろなんとか正当化を試みてきた。だが少し調べてこれが脳の機能障害であると知ると、無理に正当化する必要はまったくないな、と感じ始めた。脳がそういうふうにできているのだからしょうがないし、またそういう脳に対して今後はなるべく適切な対処がとれるようになろう、という落ち着きをえることができて、自分の人生を一区切りすることができたとも感じる。そういう意味で、働くというのは自分を発見する重要な契機だったと思う。

 今日は精神科で発達障害の診断をしてもらおうと思ったが、あいにく予約がいっぱいだったので、来週行くことになった。自分への適切な対処を学べればと思う。

 それにしても、自分を受け容れてくれる恋人の存在がありがたい。それでも自分の家事能力の低さ、だらしなさのために苛立たせてしまうことも少なくなく、そのために関係が破綻しかけたこともあったが、これも発達障害を意識した適切な処置によって解決を図るべきだろう。(もちろん、どうせ自分にはできないのだから諦めろと要求することではない)