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一眼でも生きている石

やるべきこと:体重65kg、ゴミ出し、掃除、睡眠時間の確保。できるまで他の一切は不要

何に希望を託すか

 囲碁用語をもじったブログ名をつけておきながら、ほとんど囲碁のことは何も書いていない。そればかりでなく10月に勤務を始めてから、囲碁にはほとんど触れることができていなかった。
 
 仕事のことについてはここで何度も言及している通り、とても辛くて辛くて、前からわかってはいたが自分には組織での仕事に適性がないので、なんとかして辞めても生きていけるようにしなければならないと、「飯の種になる」ことをやらねばならないと強迫的に思いつめる有り様だった。語学はできても、囲碁は自分にとって組織脱出の手段になりそうにもないように感じていた。
 
 そんな自分が土曜日、久しぶりに碁会所へ。3ヶ月のブランクをものともせず、勝ちまくる。その数日前に麻雀にすこし手を出したのだが、そんなものより遥かに楽しいと感じる。これを辞めちゃいかんだろう、と思う。
 
 飯の種にならん、という判断基準は、客観的に考えて愚かしいものだった。語学をいくらやったところで、帰国子女なりネイティブスピーカーなり、一部の留学経験者にはそうそうかなうものではない。日本において「語学の専門家」がいかに過当競争で、収入が少ないか、自分も分かっているはずだ。そんなことでなく、自分が語学を勉強することに「何かある」と感じているから、語学の勉強が続いているのである。
 
 私はどんなものについて「何かある」と感じるのだろうか。
 
 囲碁と、外国語の勉強。私にとって両者の共通点は、「コミュニケーションできる相手の多様性を増す」手段である。囲碁は、中国韓国での盛況はもとより、先日ヨーロッパにもプロ組織ができた。ルールやゲームデザインのシンプルさと普遍性、歴史の豊かさ等を考えると、世界で最も、多様な人々によって受容される余地のあるゲームであると思う。そんなところに強く惹かれているのだ。
 
 奇妙なものだ。自分は元来、人と長時間いっしょに居て話をするのが苦手だ。場に話題を提供するのも下手だし、多くのことについて受け身である。囲碁にしたって、碁会所で相手を目の前にするより自室のネットでやるほうが快適だと感じる。なのになぜ、「多くの人とのコミュニケーションを可能にするもの」に惹かれてしまうのだろう?
 
 仕事がうまくいかなかったり、人間関係がうまくいかなかったりした山ほどの経験にも関わらず、私は自分が「人間が好き」だという可能性を捨てきることができないのだろう。つまり自分が「この世界が好き」であるという可能性である。あるいは、広いこの世界のどこかに、自分が心から「人間が好き」になれる場所を見つけられる希望を、持ち続けている。だから、中国語や英語など、「多くの人」に話されている言語のことが、どうしても気になってしまう。囲碁という、長いタイムスパンで多くの人にプレイされているゲームのことが気になってしまう。そんなところなのかもしれない。
 
 外国語にせよ囲碁にせよ、私は一流の「専門家」としてそれで「飯を食う」ことができるとは思われない。むしろ「この世界が好き」であるという、自分の奇妙な希望をもっているということの方に、今の状態からの脱出を託すべきなのかもしれない。