一眼でも生きている石

やるべきこと:体重65kg、ゴミ出し、掃除、睡眠時間の確保。できるまで他の一切は不要

身近な逃げ道について

 年末。役所は26日で閉まる。今年は曜日のはまり具合が良くて27日から1月4日まで9連休。だが、喜んでもいられない。9日休んだところで、自分の何かが改善される見通しが立っていない。

 仕事で多くのことを怒られるのもつらいが、それ以上にこたえたのは、仕事終わりのプライベートな会話で、上司や同僚に「(言っていることが)おかしいよ」「日本語が不自由?」と笑いながら指摘されたことである。会話の文脈を読んで自然な応答をするという能力の欠如、もう10年以上も自覚している症状が、いま新たな意味合いで私にのしかかってくる。10年自覚して進歩がないのだから、もう改善の余地がないのだろうか? プライベートな関係ならともかく、仕事を、それもコミュニケーションが重要となる仕事をする上では、これは致命的ではないだろうか?

 自分のこの「おかしさ」が、個性として愛された日々も、少なからずあったのだ。私は自分からそこから離れてしまった。今後仕事をしていくうえで、自分の「おかしさ」が個性として、特長として認められないのであれば、あとはいったいどうすればよいだろうか。

 嫌いな食べ物をぐいぐい喉に押し込んでいる感じ、ある精神病患者が組織労働のことをそう例えていたが、言い得て妙だと思う。今の私にはわかる。

 もし働けなくなったら、実家に戻って、何か小規模に仕事をしながら、専門職を手にするための勉強をしよう、とふと考える。帰れる実家があるだけまだマシというもの。もっとも実家には精神障害者の父と、つい最近介護認定を受けた祖母と、大学卒業ののち就職も進学もせず、医学部受験のため自宅浪人している弟(母曰く、受かる見込みがあるとは思えないとか)、そしてパートとして社会保険にも入らないようなパートをしている母、の4人がいる。ここに加わるのもまた、なかなかの精神的負担であるといえる。

 首都圏に残って派遣等で就業、というのもあるだろうが、土日祝日すべて休めて、そこまで残業も多くない役所稼業でもこの体たらくの自分が、民間に行ったところでどうなることやら、であろう。

 上記の通り、ぱっと思いつく範囲内に、大いなる希望はない。だから壮大で抽象的なレベルで楽観的になるよう努め、例の「何かがある」という宣託に、いまは従うのだ…。