一眼でも生きている石

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『呉清源とその兄弟――呉家の百年』

 私が囲碁を本格的に始めたのはおととし2013年の夏頃である。当初から呉清源の名前はずっと気になっていた。私が囲碁を始めたきっかけは、坂口安吾のエッセイで、その中にしきりに名前の出てくる棋士呉清源であった。

 安吾のエッセイに出てくる人物の亡くなったのが、つい数ヶ月前だというのはなんとも驚くべきことだ。安吾と交流があったのはおそらく、30〜40代の全盛期のころ。そして先日100歳で亡くなった。老衰である。波乱の人生ながら長寿をまっとうし、老衰で閉じるというのは、まさに彼が理想とした「調和」のとれた生き方だったのではないか、と感じる。

 100歳での老衰死、ということになると、周囲の人は悲しみはもとより安堵や羨望といった感情をも覚えるのではないか。呉先生の死について、私もそういう感情もあったが、しかしやはり欠落感、喪失感が自分のなかに大きいことに気づいた。報道される著名人の死について、自分がそのような感覚を覚えたのは初めてのことだった。自分とはほとんど違う時代を生きた人物であるにも関わらず、である。

 自分の中で呉清源がかくも大きな存在になったのは桐山桂一『呉清源とその兄弟――呉家の百年』という本を読んだからである。

 

呉清源とその兄弟―呉家の百年 (岩波現代文庫)

呉清源とその兄弟―呉家の百年 (岩波現代文庫)

 

 

 碁を始めた頃に図書館で借りて読んで感銘を受け、呉先生の死後改めて岩波文庫で買って読んだ。

 呉清源は純粋な天才である。純粋な天才が、政治や時代に翻弄され、周囲の人に都合よく利用されたり振り回されたりすると、その純粋さがいっそう際立つ。そのような感想をもった。

「もし棋士になっていなかったら、私は宗教家になっていたのではないでしょうか」とも話していた。だから、囲碁を勝負事などとは考えず、陰陽の調和の理想世界だと考えていた。たとえば、このように私に語った。

「古代中国の陰陽思想の理想とは、陰と陽との調和にありますから、碁もまた調和をめざすべきものだと考えます。.......」(p379)

 

 碁というのは、碁の外の世界が存在しなくても成立しうる。そこが常に社会情勢の影響を受ける文学など芸術と違うところだ。だから、碁に道を求めるならば人は社会や政治のことはすべて忘れて、碁のことだけを考えてもよいことになる。呉清源もあるいはそれを理想としていただろうか。

 だが、呉清源にはそのような生き方はまったく許されなかった。1914年に中国で生まれ、天才少年として見出され棋士となるために1928年に来日する。当時日本は世界で唯一碁のプロ組織が存在する唯一の囲碁大国であったから、来日は当然の成り行きであるが、その直後、日中は戦争の時代へと突入することになる。戦争のさなか呉清源は日本に国籍変更をおこなうが、それでも敵国人・中国人として多くの差別、嫌がらせを受けることは避けられなかった。一方で母国中国では「文化漢奸」などとする声があった。

 その中でも、囲碁の天才、大スターとしての社会的地位は戦前から戦後にかけての活躍で確固たるものになっていたが、その地位を利用して所属していた新興宗教に宣伝塔として利用されたり、金をむしりとられたりした。また、戦後在日華僑たちにより、本人に無断で国籍を再度日本から中華民国に変えさせられたりした。さらには、なぜか日本棋院(囲碁のプロ組織)から師匠の瀬越憲作の届けにより除籍させられるということまであった。除籍の原因はまったく謎らしい。棋院に所属していないならば、身分的には「棋士」ですらない、ということになってしまう。

 さらに呉清源が政治と無縁でいられなかった原因として、彼の二人の兄の存在がある。長兄は日本の傀儡国家・満州国の官僚として務め、戦後は満州国の役人であったことを必死で隠しながら台湾で生きる。次兄の呉炎は、日中戦争中、抗日に燃えた大学生の一人であり、戦後は共産党員として新中国を生きた人物である。日本の支配を甘んじて受けた長兄と、日本の支配を屈辱的として生命を賭して抵抗した次兄と、日本に才能を見出され日本で才能を花開かせた弟。この奇妙な三者三様さは、「調和」を理想とした呉清源には重荷だったのではないか。

 そのような、時代なり人間関係なりに翻弄されながらも、呉清源はつい先日亡くなるまで、囲碁の世界に道を求め続けた。95歳にして「二十一世紀の碁」なるものを探求していたというのだから驚きだ。

 今の日本では囲碁は下火になりつつある――伝統が重荷になっているのである――が、世界的にはこれから黄金時代を迎えるゲームである、と私は信じている。様々な背景をもつ多くの人に愛されることで、囲碁がいかに人が「純粋」になれるゲームであるかがいよいよ証明されるのではないか。少なくとも、呉清源は、あれほど翻弄されながら、それを可能にしたのである