一眼でも生きている石

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【ネタバレ】『この世界の片隅に』を観た

 Twitter菅野完さんが絶賛していたのを直接のきっかけに、封切初日であった「この世界の片隅に」を池袋Humaxシネマズにて鑑賞。のんこと能年玲奈が主演であること以外に、何の予備知識もない。(自分の大好きな)戦時日本そして広島の被曝がテーマであることも知らなかった。結果、この映画に心を奪われてしまった。

 この映画の隅々まで、知りたい。登場人物の言葉のひとつひとつを、かみしめて、理解したい。そんな気持ちにさせられた映画に出会うのはいつぶりであろう。あるいは、初めてのことであるのかもしれない。

 鑑賞翌日の今日、書店にて原作マンガ、公式ガイドブックを買いそろえる。まだまだ、買いたいものがたくさんある。絵コンテ集も欲しいし、原作者こうの史代の他の作品も一通り読みたい。片瀬監督の作品も一通り観たい。クラウドファンディングによって集められたというこの映画の財務的背景ももちろん知らずにはいられない。

 以下大いにネタバレす。

 日常の描写が美しい映画だ。美しすぎて、「醜く」あることを排除してしまっているように感じられるという点で、非常にスリリングな映画でもある。

 「お兄ちゃん」の遺骨が、ただの「石ころ」であったことのおぞましさが、「これあの子の脳みそじゃないの?」というギャグによって回収される。時限爆弾による小さな子供の死という残酷な現実をまざまざと見せつけながら、一方で義父が道に倒れてしまい「空襲で弾に当たって死んじゃった」と思わせておいて「実は寝てただけ」というべたな笑いにつなげる。夫と死別した出戻りの義姉が、主人公夫婦について「もー夫婦仲が良くて結構なことね!」のようなことを言って泣くさまは完全にコメディタッチで描かれており、実際に劇場では笑いが起きていた。

 あまりに美しい映像のところどころに、こういった「死生観のゆがみ」が散りばめられている。それは主人公のすずも「歪んでいるのは私だ。まるで左手で描いた世界のように」(原作・下巻P60)と自ら言及している。

 あちこちで「狂いと現実感のなさ」を演出しながら、一方で映画は日常の細やかな描写を徹底的に行う。おさななじみの水谷の兄の死は、昭和初期に実際にあった転覆事故に基づいている。架空の人物のできごと・人となりの一つ一つが、現実の歴史の丹念な考証に基づいているようだ。

 この作品の冒頭シーンは、「一見、リアリティー重視のアニメ映画のようですが、はじめから夢のようなものであり、狂っているのであり、ゆがんでいるのですよ」とでも言わんばかりである。一人でお使いにだされた幼いすずが、広島の街中の橋――確信はないが爆心地として名高い「相生橋」ではなかろうか――の上で、「ばけもの」のかごの中に放り入れられる。その放り入れられたかごの中で、すずは未来の夫たる周作と初めて出会う。(たとえ子供とはいえ人間が二人が入ってなお余裕のある巨大なかごをかついでいるばけもの) 周作はすずに向かって「あいつ(ばけもの)は人さらいだ。このままだとわしらはあいつの晩飯じゃ」のようなことを言う。二人はその危機を、なんともメルヘンチックな解によって突破する――。大人になってお見合いという形で再会した二人は、この出来事を事実として互いに覚えている。原作ではこの出来事が単なる夢でない証拠も提示されている。

 この奇妙な現実と非現実の交錯は、本作の作品世界を象徴しているのだろう。どこかおかしくなっている世界で、必死に現実にしがみつくかのように、生活の細部が描写される。

 原爆でガラスの破片が体中に突き刺さり、皮膚の溶けた女性が出てきたとき、てっきりこれが「すず」の現実の姿であり、呉市で生き残ったすずは妄想の世界の住人である――という話にでもなるのかと思ってしまった。ただ、この女性の子供をすず夫婦はひきとって育てることになるという流れは、当然「この女性はあり得たかもしれないすずの末路」であったことを示唆している。(すずは原爆投下の日、広島に帰ろうとしていたのだ)

 いろいろ書いてきたが、考えがまとまらない。もっと考えたい。どうしてこの映画が自分の心をとらえているのか、突き止めたい。しばらくは仕事他もほどほどに、これに突っ走りたい。

 話は変わるが、玉音放送直後に太極旗(現・韓国の国旗)が呉の街中に掲げられるシーンがある。(言うまでもなく、現地に住んでいた朝鮮人が、ついに植民地支配から解放されるという意味でかかげたものである) 映画ではこれについてすずは何も言わなかったが、原作では「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」という非常に重要な一言を述べている。

 戦争映画やドラマでよく言われる「被害者の視点でしか描かれず、加害者としての日本をまったくなかったことにしてしまう」という批判は、この映画にも当てはまるかもしれない。呉にも多くいてすずと生活圏をともにしていたであろう朝鮮人たちは全く描かれない。朝鮮人がいなかったことにされているのも、やはり「ゆがみ」のひとつであり――どちらかといえば、それは主人公のゆがみではなく、現代に住む私たちのゆがみである――この映画世界があくまでゆがんでいることを、あの太極旗の登場で我々は一瞬現実に返って思い出すのである。だが、それもまるで言い訳であるかのようだ。

 それにしても、上記の「この国の正体かね」は映画でもそのまま採用してほしかったとは思う。

 

 11/16 追記

 id:sadamasato さんコメントありがとうございます。すずさんが「何も言わなかった」というのはどうやら記憶違いで、後日買った絵コンテ集を見て、何も言わなかったのではなく別のセリフを言っていたのだと思い出しました。そのセリフについてメモ的なエントリを起こしますが、なぜそのように変更されたのかは興味深いところです。

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集