一眼でも生きている石

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『この世界の片隅に』感想 もっとも崇高なる「犠牲の少女」

 多くの人の「この世界の片隅に」感想を読んでいる。この映画についていろいろな人の語っているのを見るだけで楽しい。一方で自分と同じこと、近いことを言っている人が全くいないので、よほど自分がずれているのかしらんと不安になる。

 おととい書いたようにこの映画の「すごみ」は、身近ないろいろな人の「死」が「笑い」、それも「穏やかな笑い」に回収されてしまっていくところだと思う――。多くの人は単純に「苦しい状況の中で、笑いの絶えない素敵な日常を描いた映画」という感想を述べているのだが、私はむしろ「絶望的な状況の中でゆがんでしまった『笑い』のすごみ」を感じるのであるが……。

 こうの史代先生の出世作『夕凪の街 桜の国』を読む。両作品とも、残酷で美しい愛の物語。少女性を強く感じさせる、けなげな女性が、似つかわしくないむごい仕打ちにあう。(最初「処女性」と書いていたのを「少女性」に変えた)

 少女の犠牲というのは、人間社会にとって重いものであり、極めてシンボリックに作用する。この映画に、自分も含めて多くの人が心を奪われるのは、それが「少女の犠牲」の物語だからだろう。しかし、犠牲になる少女を造形するのは、言うほど簡単なことではあるまい。

 あまり安易に他の作品と比較したくないが、『この世界の片隅に』のすずさんは、「魔法少女まどか☆マギカ」の鹿目まどかよりも、ナウシカよりも、ずっと成功した「犠牲の少女」像であるように思われる。なぜだろう。一つにはもちろん、徹底した考証に基づくリアルな歴史絵巻の中の少女だから。あと、「のん」が偉大だから。

 そして「少女」というのは、「トトロ」のさつきとメイしかり、まどかしかり、常に現実をゆがませる役割を担うわけであるが、浦野すずほどこの役割を巧妙に担っている「少女」はいないのではなかろうか。物語の冒頭で「ばけもの」を呼び寄せたのは彼女の役割を象徴的に担っているのだが、この「ばけもの」以降、すずが物語世界を明確に「非現実」にするシーンはない。(白木リンとの出会いなどもあるが…あれは普通に現実だったのだろう) その代わり、彼女は「日常生活のかすかなゆがみ」を担い続ける。それが冒頭で描いたような、さまざまなゆがみ、残酷な戦争との彼女の関りが招いたゆがみである。すずが圧倒的な存在であるのは、この現実と「ゆがんだ」世界のバランスの非凡な均衡のためではなかろうか…。