一眼でも生きている石

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太極旗とセリフの変更

 以下、ネタバレに属する事柄と思う。

 先日、

玉音放送直後に太極旗(現・韓国の国旗)が呉の街中に掲げられるシーンがある。(言うまでもなく、現地に住んでいた朝鮮人が、ついに植民地支配から解放されるという意味でかかげたものである) 映画ではこれについてすずは何も言わなかったが、原作では「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」という非常に重要な一言を述べている。*1

 と書いたのだが、これは記憶違いで、すずは「何も言わなかった」のではなく、別のセリフを言っていた。ちゃんともう一度映画を見直して確認したいが、「絵コンテ集」に書いてあるセリフを確かそのまま言っていたと思う。

 そのセリフとは 

 「海の向こうから来たお米…大豆…そんなそんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」

 である。

 これ単体で見ると、終戦という一大事に直面して錯乱している様子がうかがえるセリフということになるが、しかし元のセリフと比べると、不可解な変更だと感じる。

「暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね」

 から

「海の向こうから来たお米…大豆…そんなそんで出来とるんじゃろうなあ、うちは。じぇけえ暴力にも屈せんとならんのかね」

 への変更。

 はっきりとした論理性のある原作のセリフに比べて、映画のセリフは支離滅裂になっているという印象を持たざるを得ない。いったいどうしたことか…。(絵コンテにはこう書かれていたというだけの話なので、実際どう言っていたか、ちゃんともう一度劇場に足を運んで確かめるつもりだ。)

 この件に限らず、この作品における、「見たくないものの隠蔽」という側面から目を背けるわけにはいかないのではないかと思う。太極旗が視認できるくらいだから、すずの生活圏に朝鮮人は普通にいたわけだが、それは一切出てこない。

 みんなの見たいものだけ見せて、それで「美しい映画!」と褒め合っているようでは、ひどい欺瞞である。

 もちろん自分は、この映画がひどい欺瞞だとは全く思っていない。唐突に登場する太極旗を見て、自分も含めて「しまった、彼らのことをすっかり忘れていた」と反省させられた観客は少なくないはずだ。

 この映画の圧倒的な考証、リアリティーは、必ず人々をして「当時のことをもっと知りたい」という方向に向かわしむはずである。

 そのような効果がありながら、やはり作り手の側にも「隠したい」という気持を抑えられないところがあったのではないか…と想像せざるをえない箇所はいくつもある。

 もちろん、あらゆることを隠し偽りながら生きている平凡な自分が偉そうに言えることではまったくないけれど。

 

この世界の片隅に 劇場アニメ絵コンテ集

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